学習における4つの成長段階

4月になると新しいことを学ぼうと思いませんか?

私は今年から通信教材で工芸工業デザインについて学ぼうと思っています。他にも英語や管理会計など勉強しないといけないことはたくさんあります。

新しいことを学ぶことは楽しいことですが、勉強って継続することが大変ですよね。モチベーションの維持が難しい・・・。 私は目に見える成果があるとモチベーションにつながります。そのため学習の成果が見えづらい語学の勉強はとても苦手です・・・。

皆さんも同じような悩みを抱いた経験はありませんか?そこで今回は学習の段階を今日は共有したいと思います。

学習には4つの成長段階あります。(イラスト1)

①無能の無自覚、②無能の自覚、③有能の自覚、④有能の無自覚、この4つです。

文字通りではあるのですが、それぞれの意味を説明すると以下のようになります。

①無能の無自覚は、わからないことを認識できない状態

②無能の自覚は、わからないことを認識できる状態

③有能の自覚は、わかっていることを認識できている状態

④有能の無自覚は、わかっていることを認識していない状態

一番苦しいのは①無能の無自覚から②の無能の自覚にステップが上がったときです。学習の段階としては成長しているのですが、無能を自覚するので成長していないように思えてしまうからです。成長の実感は感じづらいですが、成長段階としてはステップを上っている状態です。学習において「スランプだ!」とか「私やっぱりできない・・・」と思っている状態だったときに、この成長段階のことを理解していると、ちょっと安心しませんか?学習においては自分の成長過程を実感できることはモチベーションの維持に重要だと思います。 学習において成果が見えなかったり、自分がわからないことばかり見えてくるようになってしまったとき、落ち込まずに「これは成長段階の最初のステップを上っているのだ」と思うようにしましょう。私もそのように考えて学習の継続に努めます!

セールスとマーケティングの違い

セールスとマーケティングの違いについて紹介します。この違いを踏まえた上で、もしあなたが新製品や新事業を創造したときにセールスとマーケティングのどちらに注力するかを考えたいと思います。

まずはセールスとマーケティングの違いについてです。

セールスは、お客さまに製品を購入してもらうために行う販促活動のことで、

マーケティングは、製品(アイデア)がどのお客さまなら買ってくれるのか、どのように改良したら欲しいと思ってくれるのかを調査することです。

このようにセールスとマーケティングは全く別物であるためプロセスも異なります。

そのプロセスをイラストで表してみました。(イラスト1)

セールスはある特定のお客さまに対して製品を購入してもらうために製品の魅力をあらゆる角度から伝えます
あらゆる角度からどんなに魅力を伝えてもお客さまに購入してもらえなかったら、次の買ってくれそうなお客さまにアプローチをします。
イラストで言うと青い矢印が製品の魅力をアピールしているイメージです。何度アピールしても1人目のお客さまは「NO」と言っています。漸く諦め、次のお客さまへアピールをかけます。それを赤い矢印で表しています。2人目以降も同様に製品の魅力をあらゆる口説き文句でアピールし、ダメだったら次の人へアピールします。

一方マーケティングは、どのお客さまなら買ってくれるか、そしてその製品がより魅力的になるにはどうしたらよいかを調査することが目的です。そのため、イラストの様に1人目のお客さまが「NO」と行ったらすぐに別のお客さまにアプローチをかけます。そこでも「NO」と言われたらまた別の人・・・・。というように繰り返します。いろんな人にアプローチし続け、漸く「OK」と言ってくれる人を見つけます。そして、そのOKと言ってくれた人に販売するのではなく、なぜOKなのか、より魅力的にするにはどうしたらよいか、OKと言ってくれたような人はどのような特徴があるのかなどを調査します。その調査結果をもとに製品に改良したり、自然と売れる販売方法を作ることがマーケティングです。

セールスとマーケティングの違いがなんとなくイメージ出来ましたか?

それではここで冒頭の質問です!
あなたは新製品や新事業を創造したとします。あなたならセールスとマーケティングのどちらに注力しますか?

私の場合は、まずは自分が生み出した新製品や新事業はユーザーにとって全く新しい価値かどうかを確認します。
そして、これまでにない全く新しい価値を生み出したと言えるのならばマーケティングを徹底して行います。
なぜなら、あなたの新製品が提供する価値について、ユーザーはこれまで経験したことがないため、いくらセールスされても魅力を感じにくいからです。
特定のユーザーが購入してくれることにこだわってセールスを続けてしまうと、本来欲しいと思ってくれるユーザーに出会うまでの時間がかかってしまいます。先ほどのイラストで言うと、1人目のお客さまに何度もアピールする(青い矢印の数を増やすこと)時間よりも、他の可能性がありそうなユーザーを探すこと(赤い矢印の数を増やすこと)に時間を使った方が有効的だと思います。また、コンコルド現象に陥らないためにも一人の人に執着するのではなく、新製品の良さを実感してもらう人を次々と探すことに注力します。
新製品の良さを実感してもらえる人を見つけたら、魅力を感じた理由などを徹底的にヒアリング調査して製品の改良や販売方法のアイデアに繋げます。その結果、一生懸命セールスをしなくてもお客さまが欲しいと思える状態を作ることを目標にします。

みなさんだったらどのようにして新製品の販売を考えますか?

聖徳太子と憲法十七条

◆憲法十七条を覚えていますか?

みなさんは、小学校のときに習った憲法十七条を覚えていますか?

聖徳太子が作った日本最古の憲法、ということは覚えているかもしれません。では、その内容はどうでしょうか?

恥ずかしながら、私は憲法十七条の内容を全て読んだことがありませんでした。

今回紹介する本は『聖徳太子と憲法十七条』という本です。この本では、日本最初の成文憲法である憲法十七条を読み解く内容になっています。

◆憲法十七条が作られた背景:力で押さえてはいけない

憲法十七条は聖徳太子によって作られたものと言われています。聖徳太子は、27歳の頃に、新羅の国を征伐するために一万人の兵を送り込み、勝利しました。敗れた新羅国王は毎年貢物を差し出すと約束しました。しかし、聖徳太子が塀を引き上げるとまた、新羅は任那という現在の朝鮮半島の南に位置した地域にあった日本府を滅ぼしました。そのとき、聖徳太子は力で押さえてはいけない、と考え、もう一度新羅へ兵を送るのではなく、精神的な、文化的な面で、日本という国を立派にしようと、憲法十七条や冠位十二階を作りました。

聖徳太子が実在したかどうかは諸説ありますが、憲法十七条が存在したことは、日本書紀にも記されているので確かだと考えられます。誰が作ったかはさておき、当時の世の中に、憲法十七条に記載されている内容の規律を設ける必要があった、と推測できます。

◆憲法十七条の基本:以和為貴。無忤為宗。

憲法十七条の第一条は「以和為貴。無忤為宗。」から始まります。和を最も大切にし、逆らうことをしてはいけない、という意味です。そしてその後には、人間は派閥を作りたがるということや人格者が少ないという現実的なことが記載されていますが、上下の区別なく、協調すれば道理にかなうと説かれています。この第一条が憲法十七条の基礎となっています。

争いごとに対して力で押さえ込むことはよくないと考え、作られたという背景を見ても、「和」というものを大切にするよう訴えたかったのではないかと考えられます。約1400年前に書かれた憲法ではありますが、和の大切さ、争いごとをしてはいけない、助け合うことの重要性について説かれていて、現在に通ずるものがあります。

◆なぜ憲法が大切なのか?:国を治める権力者の歯止め

憲法十七条も現在の憲法と同様、国を治める役人が守るべきルールについて記載されています。現在の日本国憲法ももちろん同様です。日本国憲法の第九十九条に以下のようにしるされています。

日本国憲法 第九十九条

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

この憲法を尊重し擁護する義務を負っているのは、国民ではなく、天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員です。内容を見ても、全十一章ある内、日本国民が主語となっているのは、第二章の戦争放棄と第三章の国民の権利及び義務のみです。あとは、天皇についてや国会、内閣、司法、財政、地方自治のあり方についてや、憲法改正の規定、最高法規、補則について記載されています。

つまり、憲法の内容の殆どは天皇や摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員が守るためのルールについて記載されています。これは初めて憲法ができたときから変わっていません。憲法は、国を治める権力者が暴走しないように、国民のために決められたルールです。

近日話題になっている憲法改正については、賛否両論ありますが、改正するならば国民を守るためのものでなければなりません。

小学校のときに習ったたった十七条しかない憲法ですが、国を治めるために必要な要素が凝縮されていると思います。今一度、本書をもって日本最古の憲法を理解し、現在の憲法、これからの憲法について考えてみたいと思います。

愛するということ

◆愛は学ぶものか?:愛は技術である

 みなさんは愛について学んだことがありますか?

生まれたとき家族から無償の愛を受け育てられ、思春期になれば映画や音楽から愛とは何かをなんとなく理解し、誰かを好きになったりします。そして、愛する人と結婚します。このように私たちは、愛について学校などで教わるのではなく、経験の中からなんとなく愛についてを理解していると思います。

そもそも私は、愛が教わるものであるということなど考えたことがありませんでした。これから紹介する本は、愛について教えてくれる本です。

◆本書について

 今回紹介する本は1956年に著され、60年もの間世界中で読まれ続けられている『愛するということ』という本です。本書は精神分析学に社会的視点をもらたらしたエーリッヒ・フロムによって著されました。本書は4部構成になっており、愛は技術であるという前提に、1)愛の理論、2)愛の種類、3)愛の崩壊、4)愛の習練について述べられています。

◆愛するとは?:自分自身の愛に信念を持つこと

 本書の冒頭で衝撃的なことに、著者は「愛は技術である」と断言しています。そのため、大工仕事や医学、工学などの技術を学ぶときと同じように、知識と努力で養わなければならないと著者は述べています。さらに、愛とは能動的なものであり、愛の基本的要素は、他者への配慮、責任、尊敬、そして知が必要であることも述べられています。例えば、知の例として、他者のことを理解していなければ、他者への配慮や責任が検討違いのものになります。また、他者を知らなければ尊敬もできません。さらに、愛を習練するためには自分自身の愛に対する信念が必要だとも著者は主張しています。自分自身の愛に対する信念があって初めて、相手の中に愛を生むことができると信じられるのです。

◆愛に関するケーススタディー:ウォルト・ディズニーのリトルマーメイド

 先日、ウォルト・ディズニーのリトルマーメイドをミュージカルで観ました。この物語はまさに愛について教えてくれるストーリーになっています。

 主人公の人魚姫アリエルは、人間が作ったフォークやカップなどを集めることが好きで、人間に大変興味を抱いています。しかし、アリエルは海の王様である父トリトンから「人間は悪い生き物だから近づいてはならない」と教えられてきました。アリエルは父トリトンには内緒で人間の作った物や人間の様子を自分の目で確かめます。そして人間が悪い人ばかりではないと強く信じます。

ある日、アリエルは航海中の船に乗っていた人間のエリック王子に恋をします。そのとき、その船は目の前で嵐に襲われました。アリエルは、海に落ちて溺れてしまったエリック王子を必死に助け、砂浜まで運びました。そして、歌を唄いながら介抱し、エリック王子が目覚める前に海に帰りました。エリック王子は自分を助けてくれた美しい歌声を持つ女性に惹かれ、必ずその声の持ち主を見つけようと決心します。

海へ戻ったアリエルは、父トリトンからの反対を押し切り、魔女の元へ行き、自分の声と引き換えに3日間だけ人間の足を授かります。そして、3日目の日没までにエリック王子からキスをされなければ、アリエルの魂は魔女のものになる契約を交わします。アリエルは声を失い、言葉でのコミュニケーションがとれないながらも、エリック王子を見つけ、愛し、3日間だけ恋をします。しかし、アリエルは声がでないため、エリック王子は自分が惹かれていた声の持ち主がアリエルだということがわかりません。それでも、王子はなぜかアリエルに惹かれていきますが、キスまで至りません。そのまま時間が経ち3日目の日没が訪れ、アリエルは魔女に魂を奪われてしまいます。愛する娘を奪われた父トリトンは、自分の王国である海と引き換えにアリエルを返してもらうように契約をしようとします。そのとき、アリエルは勇敢にも魔女に立ち向かい、魔女の魂を壊します。そして、無事にアリエルと父トリトンは救われ、アリエルは父トリトンから人間になることを許してもらい、エリック王子のもとへ戻り、幸せな結婚をしました。

 この物語は、まさに本書で言う、愛の基本的要素(他者への配慮、責任、尊敬、知)と愛を達する基本条件(客観性、自分への信念)がすべて揃ったものだと思いました。アリエルは人間が悪い人ばかりではないという信念のもと、人間を理解しようと努め、人間が作る素晴らしい道具を見て、人間のことを尊敬します。そして人間であるエリック王子に恋をし、彼への配慮から彼の命を助けることができました。さらにアリエルはエリック王子を愛する余り、大切な声と引き換えに人間の足を手に入れ、その行動に責任を持っています。アリエルは、唯一のコミュニケーションツールであった声を失っても、エリック王子を愛せると信じることができたからこそ、エリック王子からも愛されることができたのだと思います。そして、初めはアリエルの言動に理解を一切示さなかった父トリトンも、アリエルの信念を信じ、アリエルが人間になること、そして人間と結婚することを許しました。

アリエルはまさに、自分自身の経験や、思考力・観察力・判断力に対する自身に根ざしている信念を貫き、他者を愛することができました。その結果、他者からも愛されることができたのです。

◆愛するために必要なこと:規律、集中、忍耐の習練

 愛するには、自分自身に信念を持たなければなりません。そして信念を持つには、習練が必要です。自分自身に信念を持つには、規律、集中、忍耐、この3つを鍛える必要があると著者は言っています。

規律とは、自分の目標のために自分の意思で自分に課す規律のことであり、行うことが楽しく思え、やめると物足りなくなるように感じることを指します。

集中とは、一人でじっとしていられるようになることで、そうすることで何かを行うときにそのことやものに対して心をこめることができます。

3つ目の忍耐とは、技術をマスターするためには時間がかかるということです。体得するまで忍耐強く習練し続けることが大切だと著者は述べています。これらの習練の結果、自分自身の愛に信念を持つことができ、その結果、他者からも愛されることができるということです。

 愛するということは上辺だけのものではありません。まず、自らを愛し、信念を持つことで他者を愛することができます。そして、それは特定の相手だけではなく、全ての人々をも等しく愛することが真の愛なのです。まるで神様のようですが、もし全ての人を等しく愛そうと努めれば、ちょっとした日々の対人関係によるストレスも軽減されるのではないでしょうか。

簡単にはできないかもしれませんが、愛は技術であるという著者の言葉を信じて、規律、集中そして忍耐の習練で養っていきたいと思います。

みなさんも日頃、対人関係でストレスを感じていたり、家族や恋人への愛について悩んでいるときはこの本を手にとって、愛について考えてみると答えが見つかるかもしれません。

毒になる親

◆親と子の関係性:子と親の成長バランス

親と子の関係性は多くの場合一生続くものです。その関係性の中で子どもは成長し、大人になっていきます。2歳ごろには自我が発達し親に反抗し始めます。そして、小学生、中学生、高校生と成長するにつれて、子どもが一人の人間として成長していきます。その成長過程に伴って、親も成長し、子をいつまでも子ども扱いするのではなく、一人の人間として対応しなけらなくなります。このバランスがとても難しく思えます。

◆要約

本書は数千人の患者を診てきたカウンセラーによって著された『毒になる親』という本です。著者は患者の多くが、過去に親との関係性に問題を持っていたことに気づき、そのような人に自分の人生を取り戻してもらうための解決策を提示しています。

内容は二部構成になっており、前半は「毒になる親」とはどのような親なのか、以下の7種類に分類されています。

「神様のような親」「義務を果たさない親」「コントロールばかりする親」「アルコール中毒の親」「残酷な言葉で傷つける親」「暴力を振るう親」「性的な行為をする親」

そして、なぜ親がこのような行動をとってしまうのかについてまとめられています。

後半は「毒になる親」に支配されてきた子供が、人生を取り戻すための解決策を提示しています。これまで押さえ込んできた怒りや悲しみの感情に正面から向き合い、ありのままを飽くまでも冷静に、毒であった親に伝え、理解し合うことが推奨されています。

◆「親にとってはいつまでも子ども」でいいのか?:子の成長に合わせて親も成長すべき

本書では、暴力など肉体的な虐待よりも精神的な虐待に注目しています。精神的な虐待については表面には現れづらく、虐待と躾、保護の境界が曖昧です。そのため、親子ともども毒になる状況を認識できていない可能性があります。

例えば、子どもをコントロールすることについては、行き過ぎるコントロールと躾の範囲は曖昧です。もちろん、親として子どもの安全を守るために子どもの行動を把握すると思います。しかし、善悪の判断はもちろん、金銭的な判断もでき、ましては成人した20歳の子に、5歳の子どもと同様の把握方法でいいのでしょうか?

「今日はどこで誰と何をしていたの?」「このお金は何に使ったの?」「いつの間にこんなもの買ったの?」

これは親が子とともに成長しきれなかった表れだと思います。親としては単純に気になるから聞いている問いかけや、癖になっている問いかけもあるでしょう。しかし、子にとっては自分が信用されていない、自分の判断はどこか間違っているのかもしれない、と思ってしまいます。

そのため、いつまでたっても自分で判断が下せなくなります。そして親としてもいつまでも子が気になってしまいます。よく聞く言葉ですが「いつまでも子どもで手がかかって困る」というのは、親としてもいつまでも子扱いしているのです。世話をしすぎることで相手の判断力を奪っているのです。そして、親子ともどもその状況に気づいていないのでしょう。

では、気づくためにはどうしたらいいのでしょうか?

本書では恐れず面と向かって親と子で対決せよと述べられています。過去の親のあり方から子どもがどのように傷ついたのか、正直に話すのです。それにより、親が傷つくかもしれません。それを承知で理解し合えることを望んで対決します。もしかしたら、理解してもらえないかもしれません。もっと悪い関係になってしまうかもしれません。しかし、それでも子にとっては心が軽くなります。これは子から親への対決だけでなく、親から子へ持ちかけてもいいかもしれません。対決をすることで崩れていた親子の関係のバランスを整います。

◆他者と自分のバランス:自他ともに尊重する

関係性の問題は、親子関係だけでなく、兄弟、恋人、友人などの深い間柄には起こりうる依存の問題だと思います。

心理学で依存には「共依存」と「相互依存」の2種類があると言われています。

共依存とは、他者に必要とされることで自分の存在意義を見出すことを差し、自他の境界が曖昧になっています。一方、相互依存とは互いの違いを理解し、依存も自立も自由にできる状態で相手とは対等な関係です。自他の境界は明確です。

相互の関係性が深まるにつれて、相手との心理的距離のバランスを取らなければなりません。それは親子に限らず、兄弟、恋人、友人なども当てはまります。

近年増加しているいじめの問題やDV問題なども、相互の心理的関係性が深く関わっているのではないかと思います。

よい人間関係を築くために、相互を尊重し、自他の境界線を考えるきっかけに本書を読んでみてはいかがでしょうか。

美学への招待

◆あなたは直感を信じますか?

私は自分の直感を信じることに抵抗があります。理由は直感というものは曖昧だからです。明確な根拠がないため、頼れるものではないと思っていました。そして、だれもが直感というものをあまり信じていないものだと思っていました。しかし、最近、私の周囲には直感を大切にする人がたくさんいることに気がつきました。彼ら曰く、直感を信じた方が上手く行くケースが多いとのことでした。

◆本書の概要

今回ご紹介する本は、学問としての美学を著した『美学への招待』です。本書は、18世紀中葉にヨーロッパで確立した、美と藝術と感性を論ずる哲学のうちの、主に藝術に焦点を当てています。美学とは何かという導入から始まり、ポスターなどの複製の藝術、身体と藝術との関わり、古典的な藝術と現代的藝術の違いについて述べられています。また、時代とともに藝術が人間中心主義に変化していった経緯や近未来の美学として、人間を超える美学=自然の美について述べられています。

◆直感はどこからくるのか:過去の経験や記憶、知識の総合

私が本書の中で最も印象に残ったことは、「感ずる」ということが曖昧なものではなく、「極めて高次の浸透力をもった精神の働き」であることです。感性には直接性、反応・判断、総合性という3つの特徴があります。3つ目の総合性とは「いくつもの事実をもとにして、それらを暗黙裡に総合し、即刻判断している」ことを指します。総合性は、判断までのスピードが速いため、捉えられず曖昧なものと感じられます。しかし、その曖昧に思われがちな感性は、過去の経験や記憶、知識などの様々な要素が統合し、瞬時に判断された結果なのです。

私はこの概念を知ることで、直感というものも感性と同様に過去の経験や記憶、知識などにより判断されているものではないかと思いました。これまでの経験上、直感に従って行動したことが良い結果になったり、いろいろと考え、判断材料を用意した挙げ句、直感と同じ判断をすることがありました。このような判断はただの偶然ではなく、実は私の脳の中で、これまでの経験や記憶、知識などに基づいた極めて合理的な判断できていたのだと思います。

「ピンときた!」という経験は誰しもお持ちではないでしょうか。感性の3つ目の特徴(総合性)は捉えきれないほどのスピードで判断されるものなので、「ピンとくる」と表現されるのでしょう。このように瞬時に下される判断なので、無意識のうちにやっているものもあると思います。瞬時に下している自分の判断に意識を向けることで、自分の感性について理解が深まるかもしれません。

◆直感を信じること:自分を信じること

これまでの経験や記憶、知識といった要素から統合された感性は、いわば自分自身です。つまり、感性からなる直感を信じるとは、自分自身を信じることだと思います。

18世紀中葉にヨーロッパで美学が「美と藝術と感性を論ずる哲学」と表現されたように、これら3つはとても密接に関係しています。本書では藝術を中心に、時代風潮や身体によって捉え方や表現の仕方において影響をうけた美学について述べられているため、美、藝術、感性の関係性がイメージしやすい構成になっています。藝術や美学と言われると敷居が高く思われがちですが、感覚、感性、直感といった日頃「なんとなく」と感じているものを美学への入り口として、本書を読んでみてはいかがでしょうか。

後世への最大遺物/デンマルク国の話

◆後世への最大遺物:勇ましい高尚なる生涯

皆さんは後世にどのような物を遺しますか?

私は本書を読むまで後世に何を遺すかなど考えたこともありませんでした。そもそも、私が後世に遺せるような大層なものを成し遂げられるのでしょうか?

今回紹介するキリスト教指導者の内村鑑三著書『後世への最大遺物 デンマルク国の話』はこの疑問に答えてくれました。著者は「後世への最大遺物を勇ましい高尚なる生涯」であると述べています。

では勇ましい高尚なる生涯とは何でしょうか?

◆本の要約

本書は後世を担う学生への演説が元になっており、後世への最大遺物をテーマに、それぞれの生涯についてどう生きるか、後世に何を遺せるのかが述べられています。後世への最大遺物として、金、事業、思想と遺せるものはありますが、誰もが遺せるものではありません。誰もが遺せるものとして勇ましい高尚なる生涯を述べており、そのような生涯を遺すためには、例え少数の立場であっても己の主義を信じ、真面目に実行することが大切であると述べています。

◆「勇ましい」高尚なる生涯とは:夢の実行による他者への勇気づけ

著者の言う勇ましい高尚なる生涯とは何でしょうか?なぜ、著者は高尚なる生涯

ではなく、勇ましいとつけたのか?著者の言う勇ましさに焦点をあてて読むことにしました。

 勇ましい高尚なる生涯の例として、著者は二宮金次郎の生涯を挙げています。二宮金次郎は14歳のとき、両親を亡くし、貧乏であったため、とても残酷な伯父の元で仕事の手伝いをしながら生活をしていました。その生活の中で、二宮金次郎は本が読みたくなり、自分で稼いだお金と終日働いた後の自分の時間に本を読みました。また人が祭りなどで遊んでいるときにも、近所の沼地に田畑をこしらえ、稲を植え、米を育て、20歳のときに自立しました。

 著者はこの二宮金次郎の生涯について「この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起こってくる」と表しています。さらに著者は「邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。」と述べています。

つまり、勇ましい高尚なる生涯とは周囲の反対に打ち勝つほどの熱意と実行結果があり、その実行結果が他人に挑戦する勇気や希望を与えるものだと思います。

では、挑戦であればどのような挑戦でもいいのでしょうか?

 挑戦という言葉を聞くと、私は、資金や経験、知識がなく起業するようなハイリスク・ハイリターンなものをイメージしてしまいます。しかし、そのようなハイリスク・ハイリターンなものに丸腰で立ち向かうのでは、ただの無謀な取り組みです。反対に、現在の実力で簡単に達成できるようなことは挑戦とは言えません。

以前『起業家はどこで選択を誤るのか』という本を読みました。そこには、起業家の動機の変化とその要因、決断に及ぼす影響を検討する必要性について述べられていました。起業家というと、リスクを顧みずに何でも挑戦できるイメージがあるかと思いますが、それだけでは事業が潰れてしまいます。考えられるリスクを想定し、その中でどこまでのリスクだったら取れるのか、ということを常に考え行動する必要があります。

無謀ではなく、自らの努力次第で実現可能性が高められるものに挑戦することが、著者が言う勇ましい高尚なる生涯に繋がるのではないでしょうか。

そしてその挑戦に立ち向かい、真面目に実行することが大切です。ただ夢を描いているだけでなく、実行することで夢を現実にします。それが後世への勇気と希望になるのだと思います。

◆無謀すぎず、簡単すぎない。頑張れば成し遂げられることへ挑戦する。

大きな夢を描くことも重要ですが、それを現実に落とし込み、実行しなければ意味がありません。実行する過程には、周囲からの反対や大きなリスクによる恐怖など、いろんな障壁が現れます。それをどのようにして乗り越えられるのか。いくつかあるリスクの中でどのリスクなら許容できるのか。それらを考慮し、真面目に実行し、実現するのです。

私は大学生時代に共同で創業した弊社に3年ぶりに戻ってきました。これからの創造していく新事業に私自身が関われることへの期待と不安のどちらもあります。新しく取り組む上で、リスクに立ち向かう熱意、許容できるリスクを踏まえ、確実に実行していくことに集中したいと思います。そして、この実行が挑戦する人への勇気づけになれればと思います。

無謀すぎず、簡単すぎず、頑張れば成し遂げられることへの挑戦。

後世への最大遺産として、皆さんは何を遺していきたいですか?

2017文字 時間:3時間

ソクラテスの弁明

◆「よく生きる」とは?

「よく生きる」とはどう生きることでしょうか。

私は今よく生きているかと聞かれるとすぐには答えられません。なぜなら、よいとは何を基準に判断できるのかわからないからです。それではよく生きるための判断基準がわかっていなければ「よく生きる」ことはできないのでしょうか。

◆本の要約

今回紹介する本は、古代ギリシアの哲学者ソクラテスについて書かれた『ソクラテスの弁明・クリトン』です。

本書は二部構成になっています。第一部の『ソクラテスの弁明』では、不敬神の罪に問われたソクラテスが法廷で死刑をも恐れず、自分の正義を主張し、貫き通す場面が描かれています。第二部の『クリトン』では、死刑を翌日に控えたソクラテスに、親友のクリトンが脱獄を説得します。しかし、ソクラテスは「いちばん大事にしなければならないのは生きることではなくて、よく生きることだ」と主張し、自らの正義のために死刑を受け入れました。

◆揺らがない想いを貫く

私は本書を読んで、ソクラテスの下した判断は超越していて、一般の人にはなかなか真似できないことだと思いました。

ソクラテスにとっての正義とは、いかなる理由があっても不正を犯してはならないことです。ソクラテスは自らの正義のために死刑を受け入れるほど信念を貫いていました。

私にそのような判断ができるでしょうか?私にも死を受け入れられるほど絶対譲れない信念というものを持っているのか、考えてみました。

ソクラテスのように生と死を分けるような大それたものではありませんが、周囲の意見にとらわれずに判断を下した経験が一つあります。

私は4月に弊社へ入社しました。それまでは一般企業に3年間勤めており、転職を決心するにあたって、家族や恩師、先輩社員、友人に相談しました。そのとき、ほとんどの人が転職することを思い留まるように言ってくれました。収入の安定、生活の基盤、身分保障など理由は様々でしたが、どれも私のことを思って引き止めてくれました。しかし、私は転職を決心し、弊社へ入社しました。理由は、創設に携わった会社であること、創設したメンバーと一緒に働きたい、デザイン思考をもっと普及させたいと様々でした。しかし、根底にあったのは、私にしかできないことに挑戦したい、というものでした。組織化された一般企業だと入社3年目の私の替えなどたくさんいます。周囲の方からどんな理由を出されても、転職するという決心が変わらなかったのは、私にしかできないことへ挑戦したい、という強い想いがあったからだと思います。まだ入社して1ヶ月も経っていませんが、私にとって転職はよい選択だったと思います。これはソクラテスの言うよく生きるに通じるのではないかと考えます。

◆よく生きるには:自分の大切なものを知る

よく生きることとは何か、日頃の生活の中ではあまり考えることはないと思います。生活の中で自分の大切なものが何かが明確になると自分に一貫性が持て、大衆の判断に流されることなく、自分で決断することができます。

私は自分の大切なものについてまだまだ明確でない部分があるので、これを期に考えてみたいと思います。

皆さんも自分の大切なものとは何か、考えてみてはいかがでしょうか。

◆正義は一つではない

正義は一つではありません。

少し前に『HERO』という検事の仕事をテーマにしたテレビドラマが流行りました。ドラマでは主役の敏腕検事が、被告人が本当に罪を犯した犯人なのかについて調査し、真実を突き止めていきます。私はこのテレビドラマが大好きでした。その中でも特に印象に残っているセリフがあります。

「正義は一つじゃないんです。僕たち検事は悪人を絶対に許さないという正義があります。そして、弁護人には依頼主を守るという正義があります。そして、皆さん。裁判員の皆さんには、僕らの主張をよ〜く聞いてもらって、法と良心に基づいた公平な判決を下すという正義があります。みんな、それぞれの正義を信じて、それぞれの立場から被告人に光を当てることによって真実を浮かび上がらせていく。それが裁判なんです。」

このドラマで言っているように、正義は一つではありません。教師としての正義、母親としての正義、父親としての正義など、人それぞれに何かを判断する上で譲れない何かを持っているはずです。

自分の正義とは何か、日頃の生活の中であまり考えることはないと思います。自分の正義が何かが明確になると自分に一貫性が持て、大衆の判断に流されることなく、自分で決断することができます。

私の正義はまだ不明確なので、これを期に見つけたいと思います。

皆さんも自分の正義とは何か、考えてみてはいかがでしょうか。

生の短さについて

「幸せ」とは何でしょうか?

健康に暮らせたら幸せ?

美味しいごはんが食べられたら幸せ?

仕事が成功したら幸せ?

もちろんとても大切なことで、幸せです。

◆本の要約

今回、私が読んだ本は哲学者セネカの「生の短さについて」です。本書は3部構成になっています。

第1章の「生の短さについて」では、いかに「現在」という時間が短く、流れすぎていくものなのか。そして、さらにその「現在」という時間を「欲」の追求に浪費してしまう人間が多いことを指摘しています。

第2章の「心の平静さについて」では、精神の弱さ故に精神を平静に保つ必要性が述べられています。精神を平静に保つためには、時には精神にくつろぎを与える必要があり、度が過ぎない程に開放することで、精神に活力が戻ると述べられています。

第3章の「幸福な生について」では、「幸福」な人生について、世間体は考えず、自分が求めたいものに集中することの大切さが述べられています。

◆心が苦しくなった:本書を読むほど「幸せとは何か」がわからない 

私は第1章を読んだとき、心がとても苦しくなりました。

 今までの自分の人生はどうだったか?/私は時間を浪費していたのか?/これまで幸せと感じたことは何か?/それは本当に幸せと言えるものなのか?/単なる欲なのか?/「欲」は「幸せ」とは言えないのか?/「幸せ」は定義できるのか?・・・・

様々なことが頭の中をめぐり、読み進めることが難しいほどでした。

本を読み終え、会社の同僚と「幸せとは何か」について議論を行いました。私は自分の心を少しでも楽にするために、明確な答えを見つけようとしていました。しかし、いくら議論しても、もちろん答えはでてきません。「幸せ」に関する意見はたくさんでました。それでも私は「どれが答えなんだ?」と探してしまいました。

◆心を楽にするには:他者の考えを受け入れること

そのとき、代表の柏野から「自分の意見も他者の意見も俯瞰して見て、どちらも受け入れることも大切だ。」と言われました。

答えはいくつあってもいいし、どれが正解でどれが不正解なんてわかりません。

社会科学の調査には、トライアンギュレーションという考え方があります。一つの視点ではなく、多方面から見ることで本質が見えるという考え方です。

これは人間関係にも応用できると考えます。

日頃、家族や友人、同僚との会話で自分の想定外のことをされたり、言われた場合、

「どうしてこの人はこんなことを言うのか?こんなことをするのか?」

と主観的に捉えるのではなく、相手の観点から、

「あ!そういう見方もできるのか!」と考えることもできます。

相手の意見に反発するよりも、受け入れ、認識すると客観的に考えることができ、より本質的な解が見つかるかもしれません。

そして何より心が楽になります。

◆「幸せ」とは何か?:自分に似合うもの

セネカは2,000年以上も前から「幸福な生」のためには「自分が求めたいものに集中すべきだ」と述べています。「幸せ」とは何かを具体的には示していません。

「自分が求めたいもの」つまり、第三者が決められるものではなく、自分で決めるものだと、セネカは主張しています。

例えば、私は温かいベッドでぐっすり朝まで寝られることを幸せだと感じますが、皆さんにはそんなに大事なことではないかもしれません。逆も然りで、皆さんが「幸せ」だと感じることが、私は大事ではないと感じるかもしれません。

何を「幸せ」とするかは自分で決めることができます。

私はそれぞれの自分で決めた幸せを大切にできる世の中であってほしいと思います。

皆さんもセネカを読んで自分の幸せについて考えてみませんか?